6月7日夕、渋谷勤労福祉会館で、「ミツの魂100まで――見津くんとのお別れから20年の集い」が催された。「ミツ」とは1995年に、バイクの事故で夭折した見津毅さんのことだ。見津さんは早稲田大学在学中から際だった活動家で、国家秘密法反対運動、反天皇制運動、外国人労働者問題、野宿者支援、阪神大震災救援、戦後補償問題など様々な運動に係わり、多くの人びとに影響を与え、愛された若手のリーダーだ。なくなったときは社会新報記者だった。
見津さんの係わった多くの社会運動の中で、最も代表的なのは<秋の嵐>と言ってよいだろう。反天皇制全国個人共闘<秋の嵐>(当初は「緊急臨時共闘」と名乗った)は1987年の天皇法沖阻止闘争に参加するために見津さんが中心になって結成したグループだ。いわゆるノンセクト系だが、ヘルメットにヤッケ姿の定番スタイルと異なる「今風」の外見が特徴だった。活動も、政治集会や学習会ではなく、ギグ(コンサート)と寸劇などの街頭でのパフォーマンスが中心で、音楽活動をしているメンバーも多かった。
天皇が下血し、「X-day」が迫るなかで「歌舞音曲の自粛」ムードが広がり、全国の歩行者天国が中止になるなかで、当時<秋の嵐>がパフォーマンスの拠点としていた原宿の歩行者天国(ホコ天)も中止された。ブームとなっていたホコ天でのバンド演奏も事実上禁止されたが、<秋の嵐>は自粛を受け入れずに、ホコ天バンドのミュージシャンを巻き込んで原宿街頭でのパフォーマンスを続け、しばしば警察の介入を受けるようになっていった。
89年1月に昭和天皇が死ぬと、「天皇が死んでも悲しくないぞー!」と明治神宮前に集まったところを警察に襲撃され見津さんを含む5人が逮捕された。翌週、これに抗議するギグを右翼と警官隊に襲撃され3人が逮捕されるなど、継続的な弾圧を受ける続ける。伝統的な活動家と異なる不慣れな若者たちが、国家権力から弾圧に耐えながら活動する姿は一定の共感を呼んだ。91年頃までの逮捕、ガサなどの度重なる弾圧を受けた。
ちなみに<秋の嵐>の受けた弾圧の一部について国家賠償請求裁判(「さよならヒロヒト」原宿Xデー国賠)を提起し、原告3人の逮捕と1人への暴行について「違法」とし、賠償を命ずる判決を勝ち取った。見津さんの死後、97年11月に東京高裁で確定している。この種の公安事件としては極めてまれな勝利判決だと思う。
<秋の嵐>の仲間は見津さんが死んだ3月19日頃に、概ね毎年集まって偲んできたが、こうした中で見津さんと共に闘い影響を受けたのは<秋の嵐>だけではない、今年は死後20年だからちょっと盛大に、もっとみんなで集まってみないかという話になった。それから、実行委員会をつくって呼びかけて、実現したのが今回の集い。ちなみに6月7日という日取りには意味はない。
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